街角のアスター
- 3月2日
- 読了時間: 3分
街角に、ほんの一間ほどの小さな花屋がある。
ガラス越しに並ぶ花は派手ではないが、どれも丁寧に水を含み、朝の光を静かに受け止めている。
その店の名前は特に洒落てはいない。ただ、「アスターの花屋」とだけ書かれている。
店主のアスターは、33歳。
お店を開いてからもう10年になる。
花に囲まれた生活は長いが、家族と呼べる存在は、この街にいない。
六歳のころ、両親は離婚した。
原因は母の浮気癖だったが、人を責められない父は自ら家を出ていった。
その後ほどなくして母も蒸発した。
母の知り合いの家に引き取られて育った。
父はその後も全く戻らなかった。
声も、背中も、いつしか思い出せなくなり、記憶に残ったのは、花の名前を嬉しそうに教えてくれた横顔だけだった。
だからアスターは、この店を開いた。
父が好きだった花の香りが、いつか彼を導いてくれるかもしれないと信じて。
ある日、ひとりの男性が店を訪れた。
無口で、控えめで、黒い帽子を深く被っていた。
決して長居はしない。
それなのに、なぜか胸の奥に、小さく揺れるものがあった。
その日、アスターが差し出したのはアイリスだった。
花言葉は――「あなたを大切にします」。
彼は何も言わずにそれを受け取り、少しだけ目を細めた。
それから彼は、週に一度、必ず同じ時間に現れるようになった。
アスターは毎回、違う花を一輪、花言葉とともに渡した。
ミムラス――「笑顔を見せて」。
ラナンキュラス――「あなたは魅力に満ちている」。
ミモザ――「感謝」。
彼は決して多くを語らなかったが、花を受け取る指先は、いつも大切そうだった。
アスターは、その沈黙に安心を覚えていた。
ある雨の日、彼は珍しく長く店に残った。
その日、アスターが選んだのは、どこか儚げなストケシア。
花言葉は――「過去の思い出」。
ふとした拍子に、アスターは自分の話をした。
父と27年会っていないこと。
この店を開いた理由。
花が好きだった父が、もし生きていたら、きっとこの匂いに足を止めるだろうと思ったこと。
彼は黙って聞いていた。
そして、震える声で「……素敵ですね」とだけ言った。
その日から、彼の訪れる頻度は少し増えた。
そして、ある日――
アスターは、最後の一輪を手に取った。
紫色の、小さな花。
アスター。
「この花は、私の名前でもあるんです」
彼の目が、揺れた。
「花言葉は――・・・」
『私の愛は、あなたの愛よりも深い』
彼の言葉が、アスターの言葉をさえぎった。
驚いているアスターを優しく見つめ、彼はゆっくりと帽子を取った。
そこにあった顔は、記憶よりもずっと年を重ねていたけれど、
花を愛おしそうに見る目だけは、確かに知っているものだった。
言葉は、必要なかった。
27年分の時間は、花の香りに溶けていった。
アスターは、花を差し出す。
父は、それを受け取る。
待ち続けた想いは、決して色褪せていなかった。
父の鞄から顔を覗かせる、
鮮やかな赤いサルビアが小さく揺れた。
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